第1話 / 全71話
第1話
「もう一回。」
「本当にこれで最後だから。」
「お願いだからぁ。」
深夜。東宮の寝殿から、甘ったるい女の声が途切れ途切れに漏れていた。
外で警護に立つ宮女や宦官たちは、皆そろって顔を真っ赤にし、俯いたまま息を殺している。
誰もが知っていた。ここ数ヶ月、後宮にはある“公然の秘密”が存在していた。
――皇太子殿下と蘇貴妃様は、ただならぬ仲である。
しかも、その仲の深さときたら尋常ではない。毎晩のように密会を重ね、一時も離れたくないほどの熱愛ぶりだという。中には、蘇貴妃様が七日間も東宮に泊まり込み、一度も外へ姿を見せなかったという現場を目撃した者までいた。
噂はすでに六宮中に広まっていた。妃嬪たちはこっそり盛り上がり、宮女も宦官も陰ながら応援。さらには皇太后様までもが、密かに二人の仲を推しているという始末。
ついには――『皇太子×蘇貴妃・公式応援団』などという、聞くだけで恥ずかしくなるような組織まで結成された。
情報共有。証拠隠滅……ではなく、秘密の保護。そして二人の仲を邪魔する者の排除。彼女たちは全力で“推し活”に励んでいた。
そして、この後宮で唯一、その事実を知らなかった人物がいた。
――皇帝陛下である。
もちろん、それは“つい先ほどまで”の話だ。
今。東宮の外。夜の闇の中に立つ皇帝の顔は、もはや墨をぶちまけたように真っ黒だった。
大太監の福海は地面に額を擦りつけ、震える声を絞り出す。
「へ、陛下……! こ、これは……何かの間違いでございます……!」
皇帝は冷ややかに笑った。
「……間違い?」
その瞬間、寝殿の中から、またしても女の声が響く。
「もっと早く!」
「もっと速く!」
「あぁーーっ!」
皇帝の額に青筋が浮かび上がった。
間違い? これのどこに間違いがあるというのだ。生まれてこの方、これほどの屈辱を味わったことなど、一度たりともない。
「ドォンッ!!」
次の瞬間、東宮の扉は、皇帝の一蹴りによって無残にも吹き飛んだ。木製の扉が倒れ込み、東宮全体が一瞬で静まり返る。
そして――怒りに震える皇帝の声が夜空を切り裂いた。
「この……愚か者がぁぁぁ!!」
だが、室内の光景を目にした瞬間、その怒声はぴたりと止まった。
広々とした大殿の中央。そこにいたのは――蘇貴妃だった。
彼女は皇太子の背中にまたがり、片手で衣の襟を掴み、もう片方の手には木剣を握っている。小さな顔は、興奮で真っ赤だった。
「はい、走って!」
「お馬さん、もっと速く!」
「出発ー! 突撃ー!!」
一方、皇太子はというと――額いっぱいに冷や汗を浮かべ、四つん這いになって床を這い回っていた。
「……頼むから……」
「これで本当に最後の一周だからな?」
「約束しただろ……最後の一周って……」
しかし、蘇貴妃はぷくっと頬を膨らませた。
「やだ。」
「もう一回。」
「今度こそ最後だから。」
「お願いだからぁ。」
皇帝「…………」
福海「…………」
その場にいた宮人たち「…………」
時が止まった。死んだような静寂が東宮を包み込む。
私はゆっくりと顔を上げた。そして、門の前に立つ皇帝と、真正面から目が合った。
その瞬間、頭の中に浮かんだ言葉は、ただ一つ。
――終わった。
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