
あらすじ
優秀社員賞の握手が、二人の最大の接触だった。なのに肩書きは増え、噂は止まらない。周防社長が昇進させ続ける理由は一つ——心の声が聞こえ、私は毎日その声で彼を解体しているからだ。
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第1話
入社三ヶ月で、給料は三倍になった。
社員証には、リーダーの肩書きまで増えている。
全社が、私と周防社長は関係があると思っている。
それに対して、言いたいことは一つだけだ。
見当外れもいいところだ。
周防社長との最大の接触は、先月、優秀社員賞を渡されたとき、うっかり手が触れたこと。
彼はその場で謝った。紳士講座の優等生そのものだった。
本当に昇進と昇給を重ねてきた理由は、たった一つ。
周防社長には、私の心の声が聞こえる。
なのに私は毎日、心の中で彼を罵っている——。
入社三ヶ月。給料は三倍。社員証は「運用担当」から「特任リーダー」に変わった。
紐は、あの青いストラップのまま。端は私が噛んで、毛羽立っている。
今や全社が、私と周防社長の間に何かあると思っている。
バージョン一。忘年会の表彰。周防慧がトロフィーを渡して、指先が手の甲を撫でて、二秒止まった。写真付き。画素が粗くて、もう同衾したみたいに見える。
バージョン二。毎日午後三時に社長室へ入り、四時に出る。周防慧は耳まで赤いか、こめかみを揉んでいる。酷く消耗した顔だ。
バージョン三が一番ひどい。私は周防慧の忘れられない初恋の身代わりだ、と。初恋が帰国した瞬間、私は印刷室へ飛ばされるらしい。
言いたい。デマを流すなら、常識くらい入れてくれ。エレベーターを三分も共有しただけで、お前らの口を通ると、もう結婚十年目になっている。
実際、周防慧との最大の接触は、先月、表彰のとき、うっかり手が触れたことだけだ。
火傷したみたいに手を引っ込め、低い声で「すまない」と言った。耳の先まで赤くなって、視線は横へ逃げる。女の子に触れたことがないみたいに、純粋すぎた。
紳士をここまで守るなら、ついでに全社へマナー講座を開いたほうがいい。もったいない。
本当に昇進した理由を言っても、誰も信じない。
周防慧には、私の心の声が聞こえる。
私は毎日、心の中で彼を死ぬほど罵っている。
目次
15 話
第1話
入社三ヶ月で、給料は三倍になった。 社員証には、リーダーの肩書きまで増えている。 全社が、私と周防社長は関係があると思っている。 それに対して、言いたいことは一つだけだ。 見当外れもいいところだ。 周防社長との最大の接触は、先月、優秀社員賞を渡されたとき、うっかり手が触れたこと。 彼はその場で謝った。紳士講座の優等生そのものだった。 本当に昇進と昇給を重ねてきた理由は、たった一つ。
続きを読む第2話
話は、入社初日に遡る。 私は橘川杏、二十六歳。蒼海テック運用部の新人で、主な仕事はAIライブ配信「エコーミラー」のトーク原稿を書くことだ。 その日の朝のラッシュ。エレベーターは人でいっぱいだった。 人の流れに押されて隅へ追いやられ、片肩が宙に浮く。手のコーヒーが袖口に少し跳ねて、熱くて苛立った。 隣に立っていた男は、高く、冷たく、違法なくらい整っていた。 眉も目も鋭く、肌は冷たい白さ。
続きを読む第3話
その日の午後、人事からメッセージが来て、3番応接室へ来るようにと言われた。 心臓が、その場で半目盛り沈んだ。 人事に単独で呼ばれて、いいことがあるはずがない。 まして朝、周防慧と同じエレベーターに乗ったばかりだ。午後には呼び出し。死神に名簿を渡すのに、秒読みでもしているみたいな速さだった。 席から応接室まで、全部で四十三歩。そのあいだに、入社三ヶ月を全部振り返った。 勤怠は爆発していない。
続きを読む第4話
社長室に入った初日、全社の給湯室が爆発した。 あのエレベーターには、周防慧以外にも七、八人いた。全員、下を向いて死んだふりをしていた。 誰も、私の心の中の汚い言葉は知らない。なのに噂だけが先に出た。 「橘川杏、エレベーターで社長に話しかけたらしい。」 「死ななかったばかりか、社長室入り。」 「橘川杏、周防社長に何の呪いをかけた?」 人間とはそういうものだ。
続きを読む第5話
その日以来、法則に気づいた。 周防慧の十メートル以内にいるとき、心の中で罵るほど、彼の反応がおかしくなる。 【周防の今日のネクタイ、パワポに締め上げられたみたい】と罵ると、午後、全社に通知が飛ぶ。金曜のスーツ強制、廃止。 【朝会は誰が発明した刑罰だ。昔の流刑だって飯は出た】と思うと、翌日、朝会は十五分に縮み、コーヒーまで出た。 【この要件、社長の頭の中のキャッシュフローみたいだ。
続きを読む第6話
会社には、すぐ新しいバージョンの噂が流れた。 毎日午後三時に社長室へ入り、四時に出る。出てきたとき、周防慧の目元が赤く、いじめられたみたいだ、と。 実際は、四十分目で、周防慧がとうとう耐えきれなくなっただけだ。 「橘川杏。」 私は姿勢を正した。 「はい。」 彼はこめかみを揉んだ。 「心の中のあの一句——『周防は上場ベルに取り憑かれた貔貅』——声にできないか。アラームに録りたい。」 私は仰天した。
続きを読む第7話
二階堂麻里が私を嫌う理由は、単純だった。 彼女は周防慧の継母側の親戚で、入社三年で副社長まで上がっている。 人事も予算も彼女の手を通る。普段は現場を見ず、人を握ることだけを専門にしている。 彼女は、周防慧に取引先令嬢の水瀬清香を娶らせたい。蒼海テックと水瀬家のオフライン販路を、もっと大きな資本の盤に縛るためだ。
続きを読む第8話
私は昇進した。 昇進の仕方が、怪しすぎた。 社員証は「運用担当」から「信頼改訂プロジェクトリーダー」になった。給料も、また一段跳ねた。 告知が出た夜、社内掲示板の匿名スレが徹夜で伸びた。 【1:確定だろ。橘川杏は周防慧の命を救った】 【2:何の命? 恋愛難だろ】 【3:五十円賭ける。三ヶ月以内に交際発表】 【4:百円賭ける。もう内密婚してる。
続きを読む第9話
信頼改訂は、実際にやると、人を罵るよりずっと難しかった。 会議は深夜まで続き、AIの買い控え誘導を版ごとに直し、髪は一把ずつ落ちた。 技術は頭を油で光らせ、苦い顔で言った。 「杏さん、買い控え入れるとGMV落ちますよ。配信、誰も上がりたがりません。」 「上げて。空が落ちたら、私が支える。」 口は鉄みたいに硬い。帰り道、足はふらふらだった。 周防慧は最後まで介入しなかった。それが、事前の約束だ。
続きを読む第10話
翌日、水瀬清香が来た。 白いドレス、長い髪。周防慧の執務室の前に立つ姿は、縦型ドラマに配置を全振りした、忘れられない初恋そのものだった。 全社が首をひねって、交際発表を待ち始めた。 二階堂は特に興奮して、わざわざ給湯室へ私を引っ張った。 「橘川リーダー、水瀬さんは見た? 社長の幼なじみで、水瀬家の一人娘。家柄が釣り合う、その四文字、分かるわよね。」 首を縦に振った。 「分かります。
続きを読む第11話
投稿は三十分で、社内トレンドの一位まで上がった。 二階堂の動きは速かった。メール、苦情、匿名通報が一気に来る。主題ははっきりしている。橘川杏は不適切な関係で昇進した疑い。監査を要求する、と。 この会社がいちばん得意なのは、製品作りではない。スキャンダル作りだ。 その日の昼、弁当が届く前に、私は三回「社会的死」していた。 トイレへ行くと、個室の中で誰かが言っていた。
続きを読む第12話
私は辞めた。 退職届は、とても体裁よく書いた。一身上の都合。育成に感謝します。エコーミラーの大ヒットをお祈りします。 周防慧は手紙を机に押し戻した。 「理由。」 「疲れました。」 「投稿のせいか。」 「自分の本音が、急に高くついたと気づいたからです。社長に卸売りする値段じゃない。」 彼は黙った。 社員証を外して、静かに言った。 「社長、これからは夜更かし、減らしてください。」 「橘川杏。
続きを読む第13話
賃貸の部屋で二日、寝た。三日目、西野が狂ったようにメッセージを送ってきた。 【杏さん、二階堂がエコーミラーを乗っ取った】 【僕たちが作った買い控え、全部外された。「残り三件、今がチャンス」に差し替え】 【おばさんがマッサージ器を、保険解約までして買わされて、配信で泣きながら、自分が治療を受ける資格がないのかって聞いてる。配信者はまだ完売秒読みを叫んでる】 【陽菜、今日呼び出された。
続きを読む第14話
二階堂の番になった。一身、正義を着た声だった。 「今回の騒動は、一部の元社員の管理不行き届きに起因します。会社はすでに厳正に対処——」 言い終わる前に、脇の舞台から上がった。 会場のカメラが、ざっと一斉にこちらへ向く。二階堂の顔が硬直して、口が先に走った。 「警備。」 「副社長、急がないで。」 ついでにマイクを受け取った。 「今日は、結婚を奪いに来たわけでも、罪を認めに来たわけでもありません。
続きを読む第15話
二階堂が連行された日は、天気がよかった。 水瀬は提携終了を発表し、二階堂の婚約噂は、攻めるまでもなく崩れた。 社内掲示板の人気スレは、風向きが変わった。 【1:分かった。他人は枕元で吹く。杏さんは社長の頭に耳打ちを流し込む】 【2:昔の帝に諫臣がいたように、周防社長には橘川杏がいる。罵るほど、上がる】 【3:溺愛社長ものより、これのほうが美味くない?
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