第1話 / 全12話

第1話

私の名は桐生昭。大周国の北鎮侯爵だ。

この名を二十年背負ってきたせいで、帝都中が私を――拳一つで壮漢を三人殴り殺せる、生粋の男だと思っている。知っているのは私だけだ。この身体に入っているのは、女だと。

父は北境の戦で死に、母は難産で血を流し尽くし、臨終に私を一目見ただけだった。老番頭の福爺は、産着の私を抱えたまま霊前に跪き、一晩中考え込んだ。侯爵家に跡取りがいなければ、決まりどおり爵位は召し上げられる。三百人を超える眷属は、一夜にして俎板の鯉だ。

だから翌日、侯爵家は対外的にこう発表した。夫人が、若侯爵を産んだ、と。

それ以来、私の人生は三つの作業になった。胸を潰すこと。肩を盛ること。低い声で罵ること。

それから、宿敵――定国公爵家の嫡男、鷹司蓮と、朝堂でいがみ合うこと。

あいつとは、まる八年もやり合っている。

やつが学院の首席を奪えば、私は墨に犬の糞を混ぜた。やつが私を「兵権を笠に着て、君をないがしろにしている」と弾劾すれば、私は「寵を笠に着て、士の風を汚している」と弾劾し返した。

帝都中が、いつか私たちが朱雀大路で果たし合う日に賭けている。賭けは三年続き、胴元は盆いっぱい稼いだ。

――今年の冬至の宴で、事が起きた。

あの夜、私は二杯余計に飲んだ。酒が欲しかったのではない。老宰相の西園寺嵩が杯を持って近寄り、にこにこと「桐生侯爵、親が虎なら子も虎」と言ったからだ。その目は、毒蛇が身体を這い回るようだった。悪寒を酒で押さえ込んだ。

御苑の築山の陰に隠れ、襟を解いて息をつく。冬の夜風が襟元へ流れ込み、蛇に這われたような粘つきを、いくらか吹き散らしてくれた。

そのとき、裾を引かれた。

北境で長年、命のやり取りをしてきた身だ。頭より先に手が動く。腰の短刀へ手が伸び――見下ろした瞬間、刀は抜けず、先に人が固まった。

四五歳の小さな塊がしゃがんでいる。白玉団子みたいに白くて柔らかい。油紙の包みを死ぬほど抱きしめ、黒葡萄のような大きな目で、私を見上げていた。

御苑は三歩に一衛兵、五歩に一見張りだ。乳飲み子が、どうやって入ってきた。

考え終わる前に、その子は喉を開いた。脆い雷が落ちる。

「母上!!」

魂が飛びかけた。飛びかかり、口を塞ぎ、声を殺して吼える。

「でたらめを言うな! 俺は男だ!」

小さな塊は足をばたつかせ、涙がすぐに溢れた。嚇してしまったと気づき、慌てて手を半分緩める。その子は大きく息を吸い、しゃくり上げながら、口をへの字に曲げた。

「母上だよ。北鎮侯爵の桐生昭……ぼくは鷹司蓮昭。父上は鷹司蓮。三年後から、戻ってきたんだ」

頭の中で、何かが鳴った。

鷹司蓮昭。鷹司蓮の蓮、桐生昭の昭。

「たわ言を!」

小さな肩を掴み、わざと声を落として脅す。

「誰に遣わされた。この侯爵を陥れるつもりか。言え。西園寺の老いぼれか?」

このご時世、北鎮侯爵を陥れる手は千差万別だ。隠し子を押し込んで母と呼ばせるのは、正直、初めてだった。

「誰にも遣わされてない!」

団子はしゃくり上げて泣き、突然つま先立ちで、私の首に抱きついた。乳の甘い匂いが鼻を衝く。

全身が固まった。二十年、福爺以外で、こんなに近い人間はいなかった。

耳元で、しゃくり上げながら続ける。

「母上、苦いの、一番嫌い。薬を飲むときは、いつも舌の下に砂糖漬けを二粒隠して、飲んだあと冷たい水で押し流す……七つのとき、北境で左腕を折った。骨を接いだときは一声も泣かなくて、帰って布団の中で半晩泣いた……右の鎖骨の下に、三日月の痣がある。父上がそこをキスするとき、すごく優しかったんだよ……」

待て。

前半はどうにかなる。後半は、何を言い出した。

雷に打たれたようだった。

砂糖漬け。折れた腕。痣。

どれも、腹の底に腐らせておいた秘密だ。ことに痣は――自分でも女々しいと思って、入浴に人を付けず、普段は粉で隠し、一日も欠かしたことがない。

この世に、知っている人間などいるはずがない。

よもや――

「三年後」

団子の声が、急にひどく震えた。小さな手が襟を死ぬほど掴む。

「朝廷の鷹犬が陥れて、母上が男を偽っていたことがバレて、皇帝を欺いた罪。侯爵家も、定国公爵家も、あいついで一族誅戮された」

支離滅裂だ。だが一字一字が氷の錐で、頭頂から下へ刺さってくる。

「だからぼくは、三年後から戻ってきた。母上たちを助けるために」

顔を上げ、睫毛に涙を乗せたまま言う。

「母上。ぼくと父上の赤い糸が、切れかけている。ぼく、消えちゃう。母上が父上に近づいて、一昼夜そばにいてくれないと、ぼくはこの世に身体を結べない……」

口を開こうとした瞬間、余光が捉えた。

築山の向こう、影の中を、衣の端が一閃した。

人だ。

暗がりに蹲り、今のすべてを、聞き去った者がいる。