第1話 / 全13話
第1話
宿敵が事故で「記憶喪失」した。
私を見るなり、眉をひそめて、計算どおりの茫然を浮かべる。
「……誰?」
背を向けて歩き出そうとした瞬間、頭の中で声が爆ぜた。
【嫁、行くな。頼む。もうやめる。でもシステムが許さない。】
口ではこう言った。
「行け。世話なんて要らない。」
心の中では。
【嘘つけ! 嫁のトマトと牛肉の煮込み、十三年も想い続けてるんだぞ。】
「お前のことは覚えてない。」
【こんなこと、よく言えたな!? 高校二年のとき、あいつが他人に書いたラブレターを俺が横取りした。ほうき持って廊下を三本追いかけてきたんだぞ! 覚えてない、だと!?】
私は無表情のまま、あいつの目の前で電話をかけた。
「もしもし、岡崎社長。この前のデート、受けます。」
迅は跳ね起きて、瞳孔が地震を起こした。
【???!!!】
「……誰にかけてる。」
私は笑った。
「記憶、なくしたんじゃなかったっけ。やきもち?」 —— 久我迅が記憶喪失した。
電話がかかってきたとき、私は患者を縫っていた。手元は、一ミリも揺れなかった。
看護師がドアから顔を出す。
「樫野先生、救急に事故の患者が入ってます。命に別状はないんですけど、頭がぼんやりしてて、家族の連絡先が言えないんです。携帯を見たら、緊急連絡先の一番上が先生だったんで、見に来てくれませんか」
手袋を外して出た。
緊急連絡先の一番上:樫野想。
いつ書いたのか、私は知らない。
救急の経過観察室を開けると、迅はベッドに座っていた。額にガーゼ、スーツの上着は擦れて破れている。みすぼらしいわりに、顔は相変わらず殴りたくなる。
とくに、私を見た瞬間だった。眉をひそめて、計算どおりの茫然を浮かべる。
「……誰?」
ドアノブを握ったまま、足が止まった。
私たちは二十八年の知り合いだ。幼稚園で花マルシールを奪い合ったところから、今に至る。
あいつのほうは児童会長を奪い、私のほうはあいつの推薦入試の推薦書を破った。去年、あいつの会社の忘年会では、二千人の前で私のことを「嫁の貰い手がないのも当然だ」と言った。
その男が、今、誰、と聞いてくる。
口を開いて怒鳴ろうとした瞬間、頭の中で声が爆ぜた。
耳から入ってきたんじゃない。脳の芯で直接鳴る音だ。大きくて、凄まじくて、泣きそうな声まで乗っている——
【来た来た来た。落ち着け、久我迅。第一段階、茫然。第二段階、弱々しく。入ってきたら三語だけ。誰、だ。】
【……なんで黙ってる。マニュアルだと、ここで目を赤くして飛びついてくるはずなんだが!】
手元のカルテを見て、ベッドの男を見る。無垢な顔に、焦点の合わない目。
軽度の脳震盪。一泊観察。
歩み寄って身を屈め、あいつの目を見て、一語ずつ言った。
「迅。私は樫野想。」
瞳孔が散って、首を振る。
「覚えてない。」
頭の中の声が、すぐ咆哮を始めた。
【こんなこと、よく言えたな!? 高校二年のとき、あいつが他人に書いたラブレターを俺が横取りした。ほうき持って廊下を三本追いかけてきたんだぞ! 覚えてない、だと!?】
【我慢だ。お前は記憶喪失者だ。記憶喪失者は落ち着いていろ。】
身を起こして、無表情で言った。
「そう。覚えてないんだ。ちょうどいい、私も覚えてない。医療費は自分で払って。じゃあ」
踵を返す。
後ろから、弱々しい呼び声がした。
「待って——お姉さん、ちょっと待って。」
頭の中は花火だ。
【行った!? 本当に行った!? 第三段階『不憫になって世話をする』は!? このクソマニュアル、俺をはめやがった!】
ドアのところで足を止め、振り返らない。
「まだ何か。」
二秒黙って、次の声は羽根みたいに軽く、計算どおりだった。
「誰のことも思い出せない。お前だけは……」少し間を置いて、「見てると、わけもなく懐かしい。」
観察室が一気に静まった。
事情を知らない人間なら、ここで折れる。
残念ながら私には、あいつの独白が聞こえている。しかも今、絶叫ボリュームでループ再生中だ。
【成功! マニュアル第一条:記憶喪失者は、唯一懐かしい相手に依存する! 固まってる! 本当に固まってる! 樫野想、お前にも今日があるんだな!】
ゆっくり振り返った。
迅はベッドのヘッドに寄りかかっている。朝日が顔に当たって、睫毛の影が長い。その脆そうな表情は……やめよう。言葉にすると、先に自分が鳥肌だ。
あいつの顔を見て、ふっと笑った。
「いいよ」と言った。「久我社長が記憶喪失で、誰も面倒を見ないなら——」
目が輝く。
「——勝手に生きて、勝手に消えな。」
ドアを開けて、石化していく心の声の中を、まっすぐ出ていった。
【樫野想!!!】
【心がない! 医者のくせに見殺しにするのか!】
【……でも、笑った。今、俺に笑ったよな。】
【終わった。あいつが笑った時点で、この局、負けてる。】
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